GOGH展 2020    
    GOGH展:
今回の展示では
GOGHに影響を与えたハーグ派・・・印象派・・・を辿る形式になっている。
公式ホームページ
から借用、及び参考にした。
19世紀後半、国際的評価をもたらしたハーグ派
はファン・ゴッホの作品の発展に重要な影響を与えた。

ハーグ派の重鎮だったアントン・マウフェやマテイス・マリスらの作品は
ファン・ゴッホが画家を志すきっかけのひとつとなった。

ハーグ派が描いた農民や漁民の生活のモティーフは、
ファン・ゴッホの興味と一致するものだった。
その後ファン・ゴッホはパリで印象派と出会う。
今回はハーグ美術館から多くの作品が出品されている。

★展示は
第1部:ハーグ派に導かれて:
1:独学からの一歩
1:ハーグ派の画家たち
1:農民画家としての夢
第2部:印象派に学ぶ:
2:パリでの出会い
2:印象派の画家たち
2:アルルでの開花
2:さらなる探求
に分かれている。
   
    1:独学からの一歩    
 【6】
「疲れ果てて」 :フィンセント・ファン・ゴッホ:
1881年9-10月、
エッテン 鉛筆・ペン・インク・筆・不透明水彩、簀の目紙
P.& N. デ・ブール財団:; P.&N. de Boer Foundation
   
      1:ハーグ派の画家たち   
 【18】
≪ 4頭の曳き馬 ≫
アントン・マウフェ:制作年不詳 油彩・板
ハーグ美術館:c Kunstmuseum Den Haag

アントン・マウフェ(1838-1888)はハーグ派を代表する画家の1人。
ファン・ゴッホのいとこと結婚したため縁戚となり、
彼が駆け出しの画家だったときに絵画の基礎を教えた(1881-82年)。
人や馬が川岸や運河に沿って舟を引く「引き舟道」はオランダでは馴染み深い風景で、
この絵もそれを主題にしている。
夕陽に照らされてとぼとぼと歩く馬たちは、仕事を終えて家路につくところだろうか。
*****************
僕が特に好きな画家たちの名前を挙げておくよ。(…)
そして忘れちゃいけないのがマリスとマウフェだ。
1874.1月初旬:テオへの手紙より
******************
マウフェに伝えてほしい、
彼が描いた 鋤:すきを使う人物の素描の複製が
僕の小さな部屋に掛かっていて、いつもそれを見ては彼のことを思い出しているってね。
1877.7.15:テオへの手紙より
******************
僕は、マウフェは命を削って:油彩画や素描を描いていると思っている。
時々、彼は疲れ果てているよ。
1882.1.26:テオへの手紙より
   
 【19】
≪ 雪の中の羊飼いと羊の群れ ≫
アントン・マウフェ:
1887-88年 油彩・カンヴァス

ハーグ美術館:c Kunstmuseum Den Haag
   
【25】
≪ 出会い(仔ヤギ) ≫
マテイス・マリス
1865-66年頃 油彩・板
ハーグ美術館:Kunstmuseum Den Haag

マテイス・マリス(1839-1917)と兄ヤコプ、弟ヴィレムのマリス兄弟は
ともにハーグ派を代表する画家。
ハーグ派の絵では農婦が動物を世話する情景もよく描かれた。
ここでは女性がまだ一人歩きできない幼児を支え、
こどもはなにかを恐る恐る仔ヤギに差し出している。
マリスは戸外のくっきりした光と影の下、
主人公たちをシンプルで幾何学的な形態で捉え、
出会いの場面を印象的に切りとっている。
*****************
「芸術は自然に付け加えられた人間だ」
僕は芸術という言葉について これ以上の定義を知らない。
自然、現実、真理。
これらのものから芸術家は意味や解釈、特質を取り出し、
そこに表現や自由を与え、暴露し、解放し、つまびらかにする。
マウフェやマリスやイスラエルスの絵は、 自然そのものよりも明快に語るんだ。
1879.6.19頃:
テオへの手紙より:
   
      1:農民画家としての夢   
 【37】
≪ 農婦の頭部 ≫
フィンセント・ファン・ゴッホ:
1885年、ニューネン 油彩・カンヴァス

スコットランド・ナショナル・ギャラリー:
National Galleries of Scotland, photography by A Reeve

はじめ農民画家を目指していたファン・ゴッホはよく地元の農民たちを描いた。
特に1884年から翌年にかけては、人物の頭部ばかりを集中して描いている。
ファン・ゴッホにとって大地に働く彼らは、田園地方における季節の
移り変わりの象徴だった。
本作に描かれているのはド・フロート家の娘ホルディーナで、
何度もモデルを務めた人物だ。
真っ暗な背景や人物の横から光が当たっていることから、
薄暗い室内でランプの光を頼りに描かれたことがわかる。
************
上達するために:僕は50の頭部を描かなければならない。
ちょうど調子が出てきたところだからね、できればすぐに、次々と描きたい。

1884.11.2頃:テオへの手紙より:
*******************
僕はまだ十分に「土で描かれた」頭部というものを自分のものにしていない。
今後はもっと手掛けていきたいんだ。
1885.5.28頃
テオへの手紙より:
   
【38】
「ジャガイモを食べる人々」
フィンセント・ファン・ゴッホ
1885年4-5月、ニューネン リトグラフ、インク・紙
ハーグ美術館:c Kunstmuseum Den Haag

長らくデッサンの練習を重ねてきたファン・ゴッホにとって、
《ジャガイモを食べる人々》は初めて売り物になると自負した油彩画だった。
わずかな光の下で進むつつましやかな食事の様子を表すため、
習作も含めひと冬をかけて仕上げたという。
ファン・ゴッホは作品についてより正確に知らせるために複製原画を作り、
家族や友人にも送ったが、
友人のラッパルトからは作品への痛烈な批判が返ってきてしまった。
*************
あのような作品が真剣に描かれたわけではないという
僕の意見にきみも賛成するだろう。
幸い、きみはもっとうまく描ける(…)僕にとっては、
芸術はこのように横柄に扱われるものではない、
神聖なものなんだよ。
1885.5.24:
ラッパルトからの手紙より:
********************
僕はただ、自分の道を進んでいるんだ。(…)
人物をアカデミックに、きっちりと厳選された筆遣いで<BR>正確に描くことは、
今日の絵画に差し迫って求められているものとはまったく何の関係もない。(…)
1885.7.13頃
ラッパルトへの手紙より:
*******************
リトグラフについては説明しておきたい。
僕はあれを記憶だけで、しかも1日で仕上げたんだ。(…)
それに実験的なものでしかないし、後から石に腐蝕剤をかけたりもした。
油彩画の方では、たしかに君をかっとさせた腕や
鼻の部分の失敗はそのままだけれど、
コントラストはもっと成功していたんだ。
1885.7.15頃<BR>ラッパルトへの手紙より
***********************
問題の仕事、つまり農民たちを描くということは極めて弱い人間には
とりかかろうとすら思えないような種類の仕事なんだ。
僕は少なくともそれに挑戦したし、ある種の基礎も築いた。
これも一番易しい作業ではないんだ!
1885.8.18頃:
ラッパルトへの手紙より:
   
【41】
「 器と洋梨のある静物」
フィンセント・ファン・ゴッホ:
1885年9月、ニューネン 油彩・カンヴァス
ユトレヒト中央美術館: Centraal Museum Utrecht/Ernst Moritz

1883年末からニューネンに滞在した2年のあいだにファン・ゴッホは
200点以上の油彩と多数の素描、水彩を制作。
それまでもっぱら描いていた農民の姿や農村の風景に加えて、
静物画に集中して取り組んだ。器のまわりにわずかに光があたって、
そこに寄せ集められた大量の洋梨が暗い背景から浮かび上がる。
たしかな構成力と、土や樹木を思わせる色彩により、
大地の恵みとしての作物の存在感が力強く伝わってくる。
   
  第2部:
印象派に学ぶ

1886年の2月、ファン・ゴッホは弟テオを頼ってパリに行きます。
ここでピサロやエドガー・ドガに加え、ゴーギャンやジョルジュ・スーラなど
と交流があった。
彼らの原色を対比させた明るい色遣いと、筆触の跡をはっきりと残す描き方は、
その後のファン・ゴッホに強い影響を与えた。

2年後に南仏に移動すると、麦畑や糸杉、オリーヴの木に魅せられ、くり返し描きます。
太くうねるような輪郭線、幾重にも原色を重ねた筆遣いによってほかに類の無い、
ファン・ゴッホだけの芸術をつくりあげました。
   
     2:パリでの出会い   
【46】
≪ パリの屋根 ≫
フィンセント・ファン・ゴッホ:
1886年春、パリ 油彩・カンヴァス
アイルランド・ナショナル・ギャラリー:
National Gallery of Ireland

ファン・ゴッホは1886年2月パリに出て、
弟テオが住むモンマルトルのアパルトマンに同居しはじめた。
この絵はパリ移住後まもなくそこから描いた街の眺めである。
地平線が画面をほぼ二等分して、街の上に大きく広がる空と雲を強調している。
こうした構図や茶色い家並み、灰色の空などの落ち着いた色遣いは、
彼がパリに出てきた当初はまだオランダの写実主義の伝統に深く
馴染んでいたことを物語っている。
   
【47】
≪ ブリュット=ファンの風車 ≫
フィンセント・ファン・ゴッホ
1886年春、パリ 黒クレヨン、水彩・紙
P.&N. デ・ブール財団:P.& N. de Boer Foundation
   
       2:印象派の画家たち   
 【54】
≪ ライ麦畑、グラット=コックの丘、ポントワーズ ≫
カミーユ・ピサロ:
1877年、ポントワーズ 油彩・カンヴァス
静岡県立美術館:

印象派の長老ピサロは若い画家たちの面倒見が良く、温厚な人柄で慕われていた。
彼は1886年にファン・ゴッホと出会い、この若い画家にも世話を焼いた。
ファン・ゴッホの手紙からはピサロを尊敬していたことが読み取れる。
作品はピサロが住んでいたポントワーズを印象派様式で描いたものだ。
努力家で絶え間なく変化を求め続けたピサロは、ファン・ゴッホと出会った頃には、
若い画家たちの影響を受け、新印象派(?)へと作風を変えていた。
光や色彩を厳密な科学理論に基づき、点描で描く様式
******************
ここの、より強烈な太陽の下にいると、ピサロが言ったこと、
さらには、同じことだがゴーギャンが手紙に書いてよこしたことが
本当だということが分かった。
つまり、太陽光の偉大な効果というのは、事物を単純にし、
れらの色を白く見せ、そして荘厳にすることだ。
北にいてはそれがどのようなものであるかさえ想像できないだろう。

1888.10.17:
テオへの手紙より:
   
【56】
≪ オワーズ河岸の風景 ≫
ポール・セザンヌ
1873-74年 油彩・カンヴァス
モナコ王宮コレクション
Reprod. G. Moufflet/Archives du Palais de Monaco

第1回印象派展の頃の作品。1872年セザンヌはピサロの住むポントワーズに移り、
ピサロの指導を受けて制作した。その後近くのオーヴェル=シュル=オワーズに移った。本作はポントワーズとオーヴェル=シュル=オワーズの中間のヴァレルメイユ付近の
オワーズ河岸の風景である。ファン・ゴッホはタンギー爺さんの店などでこの画家の作品を実見し、ピサロや友人ベルナールなどから話も聞かされていたはずだが、
手紙にセザンヌの名はほとんど登場しない。
**************
私の最も好きな風景。シスレーやモネも良く似た絵を描いている。
   
 
 【58】
≪ 花咲く林檎の樹 ≫
クロード・モネ
1873年以前(?) 油彩・カンヴァス
モナコ王宮コレクション
Reprod. G. Moufflet/Archives du Palais de Monaco
   
 【59】
≪ クールブヴォワのセーヌ河岸 ≫
クロード・モネ
1878年 油彩・カンヴァス
モナコ王宮コレクション
Reprod. G. Moufflet/Archives du Palais de Monaco

グランド・ジャッド島から木の間を通して見たセーヌ川対岸の
クールブヴォワの岸辺が描かれている。
本作は第4回印象派展出品作品と考えられている。
ファン・ゴッホは1885年に弟のテオからモネの名前を聞かされるが、
画家がモネの作品を実見するのは翌年パリに出てからである。
弟は画商としてモネの作品を取り扱ったこともあった。
ファン・ゴッホの手紙にはモネの名前が頻繁に登場し、
この画家を高く評価していたことは間違いない。

************
アントウェルペンでは、僕は印象派がなんなのかすら分かっていなかった。
今や彼らの作品を見てきて、
その一員ではないにしても、
印象派のいくつかの作品に大いに感服している−
例えばドガの裸婦や クロード・モネの風景画なんかがそうだ。

1886.9月/10月:
友人ホーレス・マン・リヴェンスへの手紙より
*******************

これも大好きな絵。
 以前にも書いたが・・・

 http://takayukiyamada.cocolog-nifty.com/takayuki/2012/12/post-6131.html
   
       2:アルルでの開花   
 【65】
≪ タンギー爺さんの肖像 ≫
フィンセント・ファン・ゴッホ:
1887年1月、パリ 油彩・カンヴァス
ニュ・カールスベア美術館
Ny Carlsberg Glyptotek, Copenhagen Photo:Ole Haupt
ファン・ゴッホの下宿の近くにあった画材店の店主ジュリアン・タンギーは、
画家たちの面倒をよく見て、売れない印象派の作品も置き、
「タンギー爺さん」と親しまれていた。
店主に気に入られたファン・ゴッホは常連となり、作品も並べてもらった。
ユートピア的「社会主義者」タンギーはファン・ゴッホと思想を共感しあっていた。
ゴッホが描いたタンギーの肖像画3枚のうち、本作は最初の肖像画と思われ、
色はまだ暗いが、タッチは印象派に近づいている。
*****************
タンギー爺さんのところに:小さな部屋を借りて、
かなりの数の作品をそこに置くことにした。(…)
こうすることで、爺さんはいつでも、
とても簡単に君の作品を飾ることになるだろう。
ブドウ畑や夜景の効果に使われている色遣いに、
爺さんがどれほど夢中になっているか想像できるだろう。
いつか君にも、彼の賞賛をぜひ聞いてほしいよ。

1886.7.16
テオからの手紙より
   
 【66】
≪ アニエールのヴォワイエ・ダルジャンソン公園の入口 ≫
フィンセント・ファン・ゴッホ:
1887年、パリ 油彩・カンヴァス
イスラエル博物館
Photo c@ The Israel Museum, Jerusalem by Elie Posner

パリへ移ったファン・ゴッホは、トゥールーズ=ロートレック、ベルナールら
画家たちと交流した。本作の舞台、パリ郊外の行楽地アニエールには、
多くの印象派や新印象派(?)の画家たちが通った。
この地でファン・ゴッホは1887年にシニャック、ベルナールらと共に制作し、
印象派風の本作もその時期の作品と見られる。彼は友人たちとの制作で、印象派、
新印象派の技法を学んでいった。
なお本作は、アニエールとは別の場所の家の門を描いたという説もある。
光や色彩を厳密な科学理論に基づき、点描で描く様式
   
【71】
≪ サント=マリー=ド=ラ=メールの風景 ≫
フィンセント・ファン・ゴッホ
1888年6月1-3日、サント=マリー=ド=ラ=メール 油彩・カンヴァス
クレラー=ミュラー美術館
Collection Kroller-Muller Museum, Otterlo, The Netherlands
   
【72】
≪ 麦畑 ≫
フィンセント・ファン・ゴッホ
1888年6月、アルル 油彩・カンヴァス
P.& N. デ・ブール財団:c P. & N. de Boer Foundation

1888年の初夏に、ファン・ゴッホは収穫期の小麦畑を少なくとも10点の
油彩画に描いている。
見渡す限りに広がる、黄色く燃えるような景色に筆が進んだようだ。
ファン・ゴッホは主題を定めると、視点や色の組み合わせを変えて繰り返し描いた。
本作では、画面のおよそ3分の2を小麦畑が占めており、
豊かに実った植物が放つ強烈な黄色を捉えようとしていたことがわかる。
空の水色と薄紫色との対比がたいへん美しく、
プロヴァンスの澄み渡った空気が香ってくるようだ。
******************
(…)周囲を見わたすと
自然の中にたくさんの発見があって、
それ以外のことを考える時間がほとんど無いことだ。
なぜかというと、 今はちょうど収穫の時期にあたるからね。
(…)この1週間はずっと小麦畑の中にいて、
太陽にさらされながらとにかく仕事をしたよ。
1886.6.21  テオへの手紙より
   
        2:さらなる探求   
 【75】
≪ サン=レミの療養院の庭 ≫
フィンセント・ファン・ゴッホ
1889年5月、サン=レミ 油彩・カンヴァス
クレラー=ミュラー美術館:
Collection :Kroller-Muller Museum, Otterlo, The Netherlands
   
 【76】
≪ 糸杉 ≫
フィンセント・ファン・ゴッホ:
1889年6月、サン=レミ 油彩・カンヴァス
メトロポリタン美術館:
Image copyright c The Metropolitan Museum of Art.
Image source: Art Resource, NY

糸杉との出会いはファン・ゴッホにとって極めて重要なものであった。
墓場に植えられることから死の象徴とされる糸杉だが、
ファン・ゴッホにとっては挑戦心をかきたてられるモティーフと映った。
その均整のとれた形状と捉えがたい黒の色調に魅了されたファン・ゴッホは、
《ひまわり》に匹敵する連作とすべく、計3点の糸杉に取り組んでいる。
本作は1889年6月、サン=レミの精神療養院に入院した直後に描かれたもの。
ファン・ゴッホは素描を用意して制作に臨んだが、背景はためらうことない
力強い筆致で一気に描きあげられている。
***************
もうずっと糸杉のことで頭がいっぱいだ。
向日葵:ひまわりの絵のようになんとかものにしてみたいと思う。
これまで誰も糸杉を僕のように
描いたことがないというのが驚きで仕方ない。
その輪郭や比率などはエジプトのオベリスクのように美しい。
それに緑色のすばらしさは格別だ。

1889.6.25:
テオへの手紙より
****************
【感想】
じっくり側で見ると絵のリズムに巻き込まれる。
空の渦巻く雲、糸杉の枝・葉・・・リズムと言うより風が吹き荒れている
 感じになる。うっかりすると身体が揺れそうだ。

 キャンバスから反射する光のエネルギーを感じる。

 今まで見たゴッホではなかった感覚を覚えた。
   
 
 【79】
≪ 夕暮れの松の木 ≫
フィンセント・ファン・ゴッホ
1889年12月、サン=レミ 油彩・カンヴァス
クレラー=ミュラー美術館
Collection Kroller-Muller Museum, Otterlo, The Netherlands
************

「糸杉」の対面に展示されていた。
 こちらは重たくどっしりとして、動かない。重厚感を感じた。
 
 
 
 【80】
≪ オリーヴを摘む人々 ≫
フィンセント・ファン・ゴッホ:
1889年12月、サン=レミ 油彩・カンヴァス
クレラー=ミュラー美術館:
Collection Kroller-Muller Museum, Otterlo, The Netherlands

**************
精神療養院に入院している間、ファン・ゴッホは近隣の山野を歩き回っては
そこで目にした景色を描いた。
特に糸杉とオリーヴの木の造形や佇まいに強く惹かれ、それらを何度も描いている。
どちらも主要モティーフとして扱われてきたことが過去にほとんど無いことから、
自分だけの主題として確立することで作品も売れると考えていた。
本作の主題であるオリーヴ畑とそこで働く人々は同時期に複数枚が制作されており、
そのうちの1枚は母親と妹のウィレミーナ(愛称ウィル)へ贈られた。

*******************
(…)恐らく近い未来、
ドービニーやセザル・ド・コックが
ノルマンディーのリンゴの木を描いてきたように、人々があらゆる方法で
オリーヴの木を描きはじめるでしょう。
自然光や空とあわせることで、オリーヴの木からは無限のモティーフを
引き出すことができます。
今私は、たえず表情が変化する枝葉と<BR>空の色調を対比させて得られる
効果を模索しています。
(…)ブロンズがかった葉の緑色がより熟した色調になると、空はまばゆく輝き、
緑とオレンジの縞模様が現れるのです。

1890.5.20:
友人ヨゼフ・イサークソンへの手紙より
   
 【81】
≪ 薔薇 ≫
フィンセント・ファン・ゴッホ:
1890年5月、サン=レミ 油彩・カンヴァス
ワシントン・ナショナル・ギャラリー
National Gallery of Art, Washington
Gift of Pamela Harriman in memory of W. Averell Harriman

あふれるばかりに咲き誇る満開の薔薇。ファン・ゴッホが手掛けた数多くの
静物画の中でも最大級にして最も美しい作品のひとつである本作は、
1890年5月、ファン・ゴッホがサン=レミの精神療養院を退院する直前に描かれた
2点の薔薇のうちのひとつ。生命を讃える象徴として花をとらえていたファン・ゴッホだが、本作にも体調を回復した喜びがうねるような筆触で表現されている。
絵具が乾いた後に花瓶の下部に薔薇を書き加えたりと、
全体の調和を図るための試行錯誤のあとを示す重要な作例でもある。
*****************
サン=レミにいた
最後の数日間、
狂ったように描いたよ…
大きな花束、紫色のアイリス、そして薔薇の大きな花束だ。

1890.5.21頃:
妹ウィルへの手紙より:
   
       
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