【生誕200年ミレー再発見】    
   【生誕200年ミレー再発見】「中」
平成二十六年十一月三十日 日経新聞 美の美

 ミレーほど誤解され続けてきた画家はいないだろう。
あのファン・ゴッホの言葉に耳を傾けてほしい。
ゴッホにとってミレーは、生涯、繰り返し学び続けた魂の画家だった。
*************************
★古い新聞が出て来た。
 4年前の日経新聞。
丁度「オルセー美術館展」があった時のもの。
先日の「ゴッホ展」では日本との関わり、特に浮世絵との
関係を説明、展示されていた。
しかしゴッホが終生、私淑していたのはミレーのようだ。
少なくとも日経の学芸員の「宮川匡司氏」はその様に述べている。
ミレーとゴッホの関係がよく判るので新聞の記事を
ここに残しておく。
     
     

*******************************
日本は長年、ジャン=フランソワ・ミレー(1814〜75年)に強い関心を寄せてきた国である。
10月4日に生誕200年を迎えた今年、国内では2つのミレーの巡回展が今も仙台と東京で開催されている。
加えて、10月20日まで東京の国立新美術館で開かれた「オルセー美術館展」には、
ミレーの代表作「晩鐘」が出品された。
 これに対してお膝元のフランスのパリでは、ミレー生誕200年に関わる
本格的回顧展は、開催されなかった。
 「悲しいことです」と話すのはフランス国立美術史研究所学術顧問のシャンタル・ジョルジェルさん。
フランスを代表するミレー研究者である。
「まだ農民画家というイメージが強く、現代性がないと思われている」という。
 「ミレーについての研究や博士論文は今、とても少ないですね」と話すのは、
ルーヴル美術館の主任学芸員、マリー・ピエール・サレさんだ。
同時代のリアリズムの画家、ギュスターヴ・クールベ(1819〜77年)が研究者
の注目を集めるのとは対照的という。
 「ミレーは誰もが知っているが、本当は知られていない画家です」。
オルセー美術館の学芸員、イゾルデ・プリュデルマシェールさんの言葉である。
例えば、ミレーがパステル画や素描で大きな足跡を残したことは、意外に知られていない。
「ミレーは何よりデッサンの画家として優れている」とサレさんは語る。
油絵の具を塗ると消えてしまう生き生きとした力強い線が、ミレーの素描には残っているのだ。
*****************************
 このミレーのパステル画や素描に魅了されたのが
フィンセント・ファン・ゴッホ(1853〜90年)である。
ルイ・ファン・ティルボルフ編「ファン・ゴッホとミレー」
(二見史郎ほか訳、みすず書房)によれば、
パリのグーピル商会に勤めていた1875年6月、
ゴッホはミレーのパステルと素描を競売するための展示会を見た。
ミレーの死から5カ月後、ゴッホが画家になろうと決意する5年前のことである。
ミレーの故郷の海辺を描いた「グレヴィルの断崖」を「特別注意して見た」と
ゴッホは弟のテオに書き送っている。
すでにミレーの生前から、ゴッホはテオに、ミレーのことを熱く語っている。
前年1月のテオ宛の手紙。

「そうだ。ミレーのあの絵、『晩鐘』、おお、それだ、―――あれが美だ、
あれが詩だ」
(手紙の訳は「ファン・ゴッホ書簡全集」、=全6巻、みすず書房=
を主に参照、以下同様)
パリでパステルと素描の展示を見た頃から、ゴッホは、
ミレーの作品の複製銅版画や木版画を買い込んでいる。
やがて、「晩鐘」や「耕す人」、10点連作のミレーの
「野良仕事」の版画の模写に取り組み、デッサンだけでなく、
油彩画でも次々と描くようになる。
 「ぼくは既に全部でミレーの複製を20枚持っている。
さらにほかのをきみから手に入れてもらえば、
ぼくはそれこそ夢中になって模写するだろう」
(1880年9月7日、テオ宛て書簡)
 上のミレーのパステル画「昼寝」は、
1875年のミレーのパステル画の競売の際に、ゴッホが見たであろう
コレクションの一部である。
早朝からくたくたになるまで働いた男女が、
藁の上で熟睡している。
農作業の疲れを休めるほほ笑ましいまでの休息を、
ミレーは陰影深い柔らかなタッチで描いた。
同様の構図の左右が反転した木版画を
基に描いたゴッホの絵は、この午睡のひとときを、
燃えるような色彩の交響楽に変えている。
 ゴッホが面職のないミレーを「永遠の巨匠」と呼んで敬愛したのは、
造形上の理由だけにとどまらない。
****************
今でこそ、ミレーは、農村の田園風景を描く穏やかな画家のように
思われている。しかし、生前ミレーは、画壇の常識に挑んだ画家だった。
中でもセンセーショナルな反応を巻き起こしたのは、
1850年のサロン展出品作、「種をまく人」である。
赤の上着、青のズボンを身につけた若者が、右足を大きく踏み出し、
荒々しく腕を振って、大地に種をまいている。
両足に藁を巻き、種を入れた袋を握りしめる若者の身のこなしは
躍動感に富み、息づかいまで聞こえてきそうである。
背後の丘の上には、牛を使って土を耕す男の姿も小さく見える。

「種をまく人」がサロン展に出品されるや、賛否両論に包まれた。
1848年の二月革命後の動乱の時代である。

この絵に政治的な主張を読み取り、支配層に対する
威嚇的な姿勢と見る批評が出るのも自然の成り行きだろう。
 「ミレー氏については、世に言う怠惰で優柔不断な、間抜けな連中に属し、
農民と呼ばれる悪党と同種の輩である」。
こんな悪意に満ちた評まで紙誌に掲載された。
一方、左派の社会主義者からは、「行け、種をまけ、貧しき労働者よ、
小麦を大地に両手いっぱい投げつけよ!」
といった、檄文めいた評まで飛び出した。
(井出洋一郎著「『農民画家』ミレーの真実」より)

 しかしミレーにはそんな政治的な意図はもとよりなかった。

ミレーは後に親友に書き送っている。
「私にとって、真の人間性と偉大なる詩を実感させる労働とは、
農民たちの辛い仕事なのだ」
(アルフレッド・サンスィエ著、井出洋一郎監訳「ミレーの生涯」より)
 同じ働く農民の主題にしても、従来のアカデミズムの画家が
牧歌的で楽しげな農村風景を描いたのに対し、
ミレーは厳しい労働の現実そのものに、
人間の真実を見たのである。
以後、ミレーは60年代前半にかけて「落ち穂拾い」
「馬鈴薯植え」といった農民画の傑作を次々と描き、
そのたびに称賛と批判を浴びている。
++++++++++++++
ゴッホは、働く農民を描き続けるミレーの生涯に深い共感を寄せた。
とりわけ81年に公刊された親友サンスィエによるミレー伝を翌年読むに及んで、
その敬愛の念は、予言者を崇拝するかのような感情にまで高められた。
 今日の研究では、サンスィエのミレー伝には、その絵のコレクターで
売買にも関わった親友の身びいきが、事実とは異なるミレー像を作り上げているとして、
その「ミレー神話」の検証が進んでいる。
井手氏によれば、評伝では、道徳心に富み、
信心深く、清貧で生涯農民だったようなイメージ操作が行われているという。
父の作業を手伝った若い頃は別にして、
その後画家になってからは庭木の手入れはしても、
農作業に励んだ形跡はないそうだ。
 確かに、サンスィエによるミレーの神話化の影響は著しい。
例えば、世の無理解にさらされ苦闘したとするそのミレー伝への強い感情移入は、
ゴッホの手紙の文面に明らかだ。
 一方で、ゴッホには、若いころから親しんだミレーの芸術に対する確信があった。
そうでなければ、次のような言葉は出てくるはずがない。
 「多くの人に新しい地平を開いた本質的に
現代的な画家というのは、マネではなく、ミレーだと考える」
(1884年のテオへの手紙より)
 印象派の先駆者といわれるマネよりもミレーだ、という持論である。
 「種をまく人」は、画家になってからゴッホが、生涯取り組んだ画題だった。
人物のポーズをそのままなぞった素描から、
モデルをほぼ直立に畑に立たせた水彩画、
女性や2人の種まく人を登場させたバージョンまで、
様々な試みを繰り返している。
種まく人の後ろに太陽が輝く2つの油彩画には、
新たな色彩表現に対するゴッホの果敢な模索の跡が見て取れるだろう。

 晩年、南仏サン・レミの療養院に入ってからも、ゴッホは、
心を慰めるため、「耕す人」などのミレーの版画の模写を続けていた。
敬愛は、一貫して変わらない。
画家としてゴッホは、先人の絵に何を感じたのか。

 「ミレーは、力尽きるまで努力し尽くした人間の姿を描いた無二の画家です」。
オルセー美術館のイゾルデ・プリュデルマシェール さんの言葉が思い出される。

強い描線、人間の表情の力強い表現。
ミレーのデッサンは、印象主義を飛び越え、
強い感情を内に持ってそれを鮮烈に表現したゴッホの芸術
と深く共振したのである。
絵画の未来にとって、それは幸福な出合いというほかはない。
        文・宮川匡司
*********************************
   
     

 
 
 
 
       
       
inserted by FC2 system