大原美術館    
   大原美術館
以前から一度ゆっくり見学したいとおもっていた。
大奥の希望もあった。
丁度、岡山県立美術館で「宮川香山」の展示会もあるので4月下旬に出掛けた。
倉敷駅から美観地区に行くのに予定と違うバスに乗ったが・・・
随分遠廻りしたが、到着。
 *大原美術館:フロアーマップ:
http://www.ohara.or.jp/201001/jp/G/G2e.html

ここでは多くの洋画を楽しめるが
浜田庄司:バーナード・リーチ:河井寛次郎などの作品が数多くあり、
これらをゆっくり鑑賞するのも価値がある。


近くに「児島虎次郎 記念館」もある。

http://www.ivysquare.co.jp/cultural/torajiro.html

児島虎次郎

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★作品紹介:

http://www.ohara.or.jp/201001/jp/C/C3a03.html

★コレクションテーマ展37
名品たちの現代(コンテンポラリー)
4/167/7 :
このたびのコレクションテーマ展では、クロード・モネ《睡蓮》や青木繁《男の顔》など、
大原美術館が所蔵する東西の名品を一堂に会し、アーティストの
国籍、老若、作品のスタイル、流派等に関わらず、
その作品が制作された年代にのみしたがって展観し、ご紹介しようとする試みです。


「時」というただ一つの条件を設定することにより、その時々の美術の多様性、
あるいは翻って多様性の中から見えてくる共通性を見出していただくとともに、
「現代」という時の積み重ねによって形作られた、
美術の「歴史」を感じていただければと考えます。


ぜひOhara Contemporary展と合わせてご覧ください。
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展示品の中でやはり最も輝く作品










受胎告知http://www.ohara.or.jp/201001/jp/C/C3a03.html











★解説:
かぎりなく深い神秘的な闇に包まれた夜空に、
突然眩いばかりの光芒を発して天使が登場する。
この光と闇の力強いドラマは、神の子の肉化を告げるという
ドラマティックな事件の舞台として、まことにふさわしい。雲に乗って現われた天使は、
右手を大きく捩(ねじ)りながら天に向け、
左手に純潔のシンボルである白百合の花を持って、
やや上の方から聖処女マリアを見下している。

エル・グレコ(1541-1614)の作品にしばしば見られる
この天上に向けられた手のモティーフも、
場面の劇的緊張感を強調するのにきわめて効果的役割を果していると言ってよいだろう。

マリアは、書見台の前から大きく身をよじらせ、この不意の出現に驚きながらも、
片手を挙げて天使を迎え、たじろがぬ視線で天使を見上げながら、
しっかりとお告げの言葉を受け止める。

画面を斜めによぎるこの二人の視線の交錯こそ、
全体の構図の中心であり、そこに、天上世界と地上世界の結びつきが成立する。


中世以来、「受胎告知」の主題は、数かぎりない画家たちによって描かれてきたが、
そのドラマの神秘性をこれほどまで力強く表現し得たのは、

まさしく反宗教改革の時代に生きたエル・グレコの特質のなせる業である。

実際、中世末期からルネッサンス期にかけての「受胎告知」図は、
天使がマリアと同じ地上に立って、あるいは高雅に、あるいは優美に、
お告げの役目を果していた。

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世紀後半にいたって、例えばティントレットなどの作例に見られるように、
空中に飛翔する天使が登場して来る。

このようなダイナミックな天使は、バロックの時代には普通に見られるようになるが、
それに先立って、エル・グレコは、
雲に乗って夜の闇に輝くこの忘れ難い天使の姿を見事に造形化して見せた。


従来、もっぱら室内、あるいは少なくとも建物の背景の前で展開されていたこのドラマを、
奥深い夜空を背景に描き出したのも、幻想画家エル・グレコの独創性を物語るものであろう。
聖霊の鳩、白百合の花、マリアの前の本など、伝統的図像表現を受け継ぎながらも、
エル・グレコは、古くからあるこの主題に新生面を開いたのである。

 彼の本名は、ドメニコス・テオトコプーロス。
クレタ島生まれのギリシャ人で、ヴェネツィア、ローマで修業した後、スペインにやって来た。
「エル・グレコ」とは、「ギリシャ人」を意味する。
東方の神秘性とスペインの表現性とを合わせた独自な画風を示した画家である。

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http://www.ohara.or.jp/201001/jp/C/C3a27.html



■解説
クロード・モネ(
1840-1926)は、生涯にわたって、
光とその物におよぼす色彩の変化を追い続けました。
朝、昼、夕、夜と光の強さは時間ごとに変化します。
戸外で実際の風景を見て制作することを信条としたモネは、
時間ごとにキャンバスを取り替えながら制作しました。
このような方法で描かれたのが、
1888年から描かれた30点にものぼる「積みわら」の連作です。
この「積みわら」は、モネが1885年に描いた「積みわら」の3点のうちの1点です。
1888
年以降に描かれた「積みわら」の連作では、
積みわらにおよぼされる光の効果に焦点が当てられ、
まわりの風景にあまり関心は払われていません。

しかし、この「積みわら」では、積みわらのみならず、
明るい空や風になびく雲も描きこまれています。
前景のふたりの人物はモネの後妻であるアリス・オシュデとモネの息子ミシェル・モネと
推定されています。
(注
1 ※大原美術館所蔵のモネ作品は、「積みわら」と「睡蓮」の2点。
 1:参考文献:
 「印象派展」図録 (群馬県立近代美術館) 1994
 「モネ展」図録 (中日新聞社) 1994

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http://www.ohara.or.jp/201001/jp/C/C3a26.html







解説

画面一杯を占めるこの睡蓮の池は、晩年のクロード・モネ(1840-1926)が住んだ
ジヴェルニーの邸の庭に造られたものである。

水面に浮かぶ妖精のようなこの花をかぎりなく愛したモネは、
池のほとりにわざわざアトリエを建て、
一日中いつでも好きな時にその姿が描けるようにしたという。

少年時代、オンフルールの海岸で遠く拡がる海を眺めた時から、
水に憑かれていたモネであったが、
1883年、ジヴェルニーに移ってからは、
文字通り睡蓮とともに生活する日々の連続であった。

池を描きながら岸も空もなく、ただ水面だけというモネ独特の俯瞰構図も、
日本美術の影響とともにこのモティーフに対する彼の愛着をよく示している。
ひとたびこの睡蓮の池に向う時、
モネの眼には他の何ものも映らなくなってしまうかのようである。

  それだけに、その水面を見つめるモネの眼は徹底している。
水や花はもちろんのこと、そこに映る空や雲の影、樹の葉の反射、
微妙な風のそよぎとそれによる水面の変化、
そして何よりも、
刻々と変って行く光の効果を、的確に捉えて画面に再現しようとするのである。
同じモティーフを対象として、
それに及ぼすさまざまな光の作用を追求したいわゆる「連作」作品は、
連作「ルーアンの大聖堂」、「積みわら」、「ポプラ並木」等、
いくつもその例を挙げることができるが、
そのなかでも最も多彩で最も豊かなヴァリエーションを見せるのが、
この睡蓮連作にほかならないのである。

  印象派運動の中心的存在の一人であったモネは、パリの食料品屋に生まれたが、
生まれて間もなく家族と共にル・アーヴルに移り、
ノルマンディの広大な空と海を眺めて少年時代を過した。

この港町で、海景画家ウジェーヌ・ブーダンと出会ったことは、
その後の彼の生涯に大きな影響を及ぼすことになる。
彼が両親の反対を押し切って再びパリに出て画家を志すのは、
ブーダンの刺激によるところが大きかったからである。

  パリに出てからは、一時シャルル・グレールのアトリエに学んだが、
そのアカデミックな教育法に飽き足らず、
アルフレッド・シスレー、ピエール=オーギュスト・ルノワール、
カミーユ・ピサロなどの
仲間といっしょに、印象派のグループを結成し、
自己の感覚にのみ忠実な明るい画面を目指した。
印象派のグループそのものは、
10年余り続いた後に解体したが、
モネはおそらく、グループの誰よりもその精神を最後まで守り続けた画家であった。

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http://www.ohara.or.jp/201001/jp/C/C3a19.html





りんご採り












■解説

 印象派の仲間たちのうちで、カミーユ・ピサロ
1830-1903)は、いささか特異な地位を占めている。
ポール・セザンヌ、アルフレッド・シスレー、クロード・モネ、
ピエール=オーギュスト・ルノワール等が、いずれも
1840年前後の生まれであるのに対し、
ピサロだけは彼らよりもほとんど
10歳も年長であり、 その上、
温厚な人柄であったこともあって、
いわばグループのまとめ役として重要な役割を演じたのである。
事実、
1874年から1886年まで、前後八回にわたって開かれた印象派グループ展に、
一回も欠かさずに参加したのは、ピサロただ一人であった。

  もともと彼は、西インド諸島のサン・トマに生まれ、
最初は父の経営する商社の手伝いをさせられていたが、どうしても画家になりたくて、
1852年、ベネズエラに出奔した。最初は画家に反対していた父も、
息子の決心の固いことを知って遂に諦め、彼が画家になることを許した。

その結果、彼は1855 年、ちょうど万国博覧会の開かれていたパリに赴いて、
画家修業をすることになったのである。 
パリでは、当時大いに話題になっていたギュスターヴ・クールベの写実主義に惹かれ、
また一時ジャン=バティスト=カミーユ・コローの弟子ともなったが、
1859年にモネと知り合うに及んで、次第に「前衛的」な方向に進み、
1860
年代の末には、パリ近郊のポントワーズに住んで、
戸外の明るい光のなかで直接制作するいわゆる「外光主義」を実践するようになった。
その時の経験と交友関係から、やがて印象派のグループが生まれて来ることは、
広く知られている通りである。

   ピサロの作品の何よりの特色は、
画面全体を明るく輝く華麗な色彩の筆触で覆ってしまう綴織りのようなその画法であろう。
この《りんご採り》においても、やや斜め上から見下したような
俯瞰構図で画面のほとんどを地面で覆い、そこで働く三人の人物も含めて、
全体を明るいタッチの織りなす充実した色彩世界に変えてしまっている。

モネやシスレーが空気や水の世界に強く惹かれたのに対し、
ピサロはもっぱら大地とそこで働く人々の姿に共感を寄せているが、
ほとんど空の部分が見えない大胆な構図と、
画面の隅々まで鮮烈な色彩のタッチで埋め尽くしたこの作品は、
「大地の印象派」と呼ばれ、「色彩の魔術師」と言われたピサロの特色を、
きわめてよく示す傑作である。

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http://www.ohara.or.jp/201001/jp/C/C3a13.html




■解説


ポール・セザンヌ
(1839-1906)は、南フランスのエクス=アン=プロヴァンスに生まれ、
この地で亡くなりました。
最初は印象派の画家たちの影響を受けましたが、
しだいに自然の印象を円錐、同筒、球体などの基本的な形体としてとらえなおし、
画面を構築していくという独自の作風を追求するようになりました。

セザンヌは、生涯に絵画、素描、版画などを含め、200点以上もの水浴図を制作しています。
セザンヌにとって、水浴図のテーマは、
人物と風景との構成と調和を探求するのに適した題材でした。

この「水浴」では、5人の人物を三角形の構図におさめており、
セザンヌの造形に対する強い意欲がうかがえます。

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http://www.ohara.or.jp/201001/jp/C/C3a09.html






■解説
ジャン=バティスト=カミーユ・コロー(
1796-1875)は、パリ生まれ。
父は布の卸売業者、母は有名な婦人帽子店をいとなむ裕福な家庭に育ちました。
父の仕事をつぐように教育をうけたものの、彼の関心は絵にありました。
1822年、26歳のとき、ようやく両親は彼の希望をききいれ、同時に一生の間、
生活に困らないように年金を保証しました。これによって、
彼は生活の心配をすることなく、絵に打ちこむことができたのです。

コローは非常に自然を愛し、戸外でさかんにスケッチをおこないました。
1825
年から約3年にわたるイタリア留学でも、野外写生に熱心に出かけています。
そして明るい色彩で、外光にみちた風景を表現する技術を獲得。この後も、
2度イタリアに旅行しています。

コローは戸外のスケッチをもとにして、アトリエでじっくりと制作に取りくみました。
彼の絵が、整然でバランスがよく、静かな落ち着きにみちているのは、
彼自身が風物の配置の再構成をしているためです。彼はまた、
屋内で描いたすぐれた肖像画ものこしています。「真珠の女」
1868-1870年、ルーヴル美術館蔵)などは、人物をくわしく観察し、
その表情をよくとらえた作品です。

この「ラ・フェルテ=ミロンの風景」は、パリの北東部に位置する小村で描かれました。
小さな作品ですが、田園風景の空間の広さをみごとにあらわした作品といえるでしょう。

画面左の積みわらと農婦から、右の牛と農夫へ。さらに木立から城館へと、
絵の鑑賞者の視線が自然に奥にみちびかれるように工夫しています。

 (参考文献) 「コロー」 (美術出版社) 1974

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http://www.ohara.or.jp/201001/jp/C/C3a05.html







■解説

ギュスターヴ・クールベ(
1819-1877)は、ドイツ国境に近いフランスの小村オルナンで生まれました。 法律を学ぶためにパリに出たものの、
幼少のころから絵ばかり描いていた彼は、ルーヴル美術館の過去の名画を模写、
研究し、伝統的な表現技法を身につけました。

クールベは「目に見えるもののみを描く」ことを信条とし、1844年の初入選いらい、
つぎつぎと意欲的な作品をサロンに出品しました。
当時のサロンは過去の歴史、
神話を主題にした伝統的な「歴史画」、
日常生活をテーマにした「風俗画」で占められていました。
クールベは、労働する人々をテーマとした「石割人夫」(第二次世界大戦中焼失)、
故郷のオルナンで行われた村人の葬式のようすを描いた
「オルナンの埋葬」(オルセー美術館蔵)、

複雑な寓意を秘めた「画家のアトリエ」(オルセー美術館蔵)など、
当時のサロンの伝統からはずれた作品を出品し、多くの非難を浴びました。
しかし、このクールベの写実主義は、印象派へとつながる大きな橋渡しとなったのです。

クールベは革新的な作品を描くいっぽうで、山の自然、動物、海景も多く描いています。
この「秋の海」は、北フランスのノルマンディの海岸で描かれた作品です。

天候に翻弄される海のようすを、クールベの眼は的確にとらえています。

   
       
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