京都市立美術館:
マルモッタン・モネ美術館所蔵
モネ展「印象、日の出」から「睡蓮」まで
2016年3月1日(火)〜5月8日(日) 61日間
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久しぶりに京都に出掛けた。
目的はモネの「日の出」
最初にモネに関して基本的なことを復習した。
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1」マルモッタン美術館:
マルモッタン美術館 (Musee Marmottan Monet) は、パリにある美術館である。
フランス印象派の画家クロード・モネの作品のコレクションで知られる。
パリ市内、ブローニュの森にほど近く、世界最大級のモネのコレクションを収蔵する。
特に印象派という流派名の由来となったモネの
代表作『印象・日の出』を所蔵することで名高い。
2」日の出・・・来日履歴:
『印象・日の出』(いんしょう・ひので、仏:
Impression, soleil levant)は、
クロード・モネが1872年に描いた絵画であり、印象派の名前の由来ともなっている。
モネ「印象、日の出」が21年ぶりというのは「東京」の事です。
2008年12月23日〜2009年2月8日には名古屋市美術館へ来日しています。
21年前の美術展は、石橋財団ブリヂストン美術で開催された『モネ展』です。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10150598990
3」ルノアールとの交流:
感性の時代屋・・・
語り合う2つの名画
[モネとルノワールの La Grenouillere/1869]
から借用しました。
http://guchini.exblog.jp/19004232
印象派の巨匠として絵画史上に揺るぎない名を刻み込んだ2人の画家、
モネとルノワールの二人がイーゼルを並べて描いたと云われる名画が残っている・・・
1869年に描かれた [ラ・グルヌイエール:La Grenouillere] の2点と、
そしてその4年後の1873年の [アルジャントゥイュの鉄橋:Le Pont
d'Argenteuil] の1点・・・
お互い筆を進めながら、何を語り、そして二人にどんな時が流れたのだろうか?・・・
クロード・モネ(Claude Monet)は1840年、小さな食料雑貨商を営む次男として
パリのラフィット街に生まれ、5歳の時に一家はノルマンディー地方の
セーヌ河口の街ル・アーヴルに移住する。洞察力の鋭い少年は、
町の人々や名士を戲画(カリカチュール)風に描き、
絵は画材屋の店先で1枚20フランでよく売れ、その後19歳の1859年にパリに出て、
1860年にアカデミー・シュイスに入学しピサロらと知り合い、
1年強のアルジェリアでの兵役を経て、1862年秋にシャルル・グレールのアトリエ(画塾)に入る・・・
ピエール=オーギュスト・ルノワール(Pierre-Auguste Renoir)は
1841年フランス中南部の磁器産業で栄えたリモージュに7人兄弟の6番目として生まれ、
父は仕立屋、母はお針子で、3歳の時に一家はパリのルーヴル美術館の近くに移り住む。
f0190950_15223989.jpg1854年の13歳で磁器工場の磁器の絵付職人の見習いとなるが、
産業革命や機械化は伝統的な磁器絵付けの世界にも影響を及ぼし絵付けは自動化され、
1858年には職人としての仕事を失う。画家を目指し1862年には
エコール・デ・ボザール(官立美術学校)に入学しながら、
20歳の1861年にはシャルル・グレールのアトリエに入り、
ここでモネ、シスレー、バジールら、後の印象派の画家たちと知りあう・・・
晩年、ルノワールは南仏のカーニュに移り住み、リュウマチに侵され車椅子で制作を続け、
包帯で絵筆を手首に縛りつけながら、作品総点数約4,000点余りを描き、78年の生涯を終える。
そしてモネも、80歳を超えた1923年に白内障の手術を受け、
パリのオランジュリー美術館の2部屋を占める8枚の「睡蓮」の大壁画を完成させ、
パリの西約80kmの郊外にあるジヴェルニーで86歳の生涯を終えた・・・
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【今回の展覧会の作品:HPより借用】
【見どころ】
http://www.ytv.co.jp/monet/highlight/index.html
クロード・モネ(1840−1926)は、生前に成功した画家で、
晩年のものを中心に多くの作品を最期まで手元に残しました。
これらは息子のミシェルが相続しましたが、その後、ミシェルの遺志で
マルモッタン美術館に遺贈されました。その数およそ150点。
モネが晩年に何度も取り組んだ「睡蓮」や「日本の橋」だけでなく、
10代後半で描いたカリカチュア(風刺画)や30代から40代の風景画も含まれ、
モネの画業を辿ることができる画家本人によるプライベート・コレクションです。
この特別な作品群を譲り受け、マルモッタン美術館は、「マルモッタン・モネ美術館」
と名称を変えました。
本展では、このモネ・コレクションから選りすぐりの約90点を展示。
うち約7割がモネ自身の手によるもので、ほかにはモネ自身が収集した
作品やモネ愛用の品をご紹介します。マルモッタン・モネ美術館
だからこそ実現できた“究極のモネ展”、どうぞご期待ください。
クロード・モネの肖像(1903年頃)
Musee Marmottan Monet, Paris c
Bridgeman-Giraudon
マルモッタン・モネ美術館でもっとも知られているのは《印象、日の出》でしょう。
「印象派」という言葉の由来となった歴史的作品で、
ジョルジュ・ド・ベリオが所蔵していたものです。
ド・ベリオ氏はモネをはじめとする印象派の画家も診ていた医師で、
初期の印象派を評価した数少ない収集家の一人。
そのコレクションは1940年にマルモッタン美術館に寄贈されました。
本展には、このド・ベリオ・コレクションから、《印象、日の出》、
《テュイルリー公園》、《雪の効果、日没》の3点が出展されます。
《印象、日の出》は、京都では33年ぶり。
今でこそ印象派のもっとも有名な作品のひとつですが、
20世紀半ばまでは《テュイルリー公園》の方が高い評価を得ていました。
ド・ベリオ・コレクションは、マルモッタン・モネ美術館の中核をなす作品群で、
滅多に貸し出されることはありません。本展はこれらを間近に
ご覧いただける貴重な機会となります。
【ド・ベリオ・コレクション・・・から 】
クロード・モネ《印象、日の出》
1872年 油彩、カンヴァス 50×65p
Musee Marmottan Monet, Paris c
Christian Baraja
展示期間:2016年3月1日(火)〜3月21日(月・休)
「テュイルリー公園」
クロード・モネ 《テュイルリー公園》
1876年 油彩、カンヴァス 54×73p
Musee Marmottan Monet, Paris c
Bridgeman-Giraudon
展示期間:2016年3月22日(火)〜5月8日(日)
「雪の効果、日没」
クロード・モネ《雪の効果、日没》
1875年 油彩、カンヴァス 53×64cm
Musee Marmottan Monet, Paris c
Bridgeman-Giraudon
展示期間:開催期間中
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印象派の名前の由来となった《印象、日の出》。
モネが幼い頃過ごしたフランス北西部の町、ル・アーヴルの港に
日が昇る様子を描いたものですが、制作年などを巡り議論を呼んでいました。
作品には「Claude Monet.72」と自筆のサインがありますが、
モネが1872年にル・アーヴルを訪れた記録はなく、
実際には1873年に描かれたとの見方が大勢を占めていました。一時は、
「日の出」ではなく、「日の入り」ではないかとさえ言われたこともありました。
議論に決着をつけようと、マルモッタン・モネ美術館では2014年、
アメリカ・テキサス州立大学の天文学者ドナルド・W・オルセン氏ら
とともに作品が描かれた日時の調査を行いました。
19世紀に撮影された写真や地図をもとに、モネが作品を描いた場所を特定。
さらに作品から太陽の位置や潮位を調べ、当時の気象の記録から天気や風向きが
一致するのは1872年11月13日、もしくは1873年1月25日だと導き出しました。
その上で作品に「72」と書かれていることや美術史家の分析を踏まえ、
作品が描かれたのは1872年11月13日7時35分頃の可能性が高いと発表しました。
本展ではマルモッタン・モネ美術館の見解に沿い、制作年を1872年としています。
1912年、72歳になったモネは右目に違和感を覚えます。白内障を患っていたのです。
少しずつ目に映る色も描く色彩も変化していきます。
失明を恐れて手術を拒否していたため症状は悪化し、1915年には、
「赤が泥のような色に見える」と話しています。1922年になると、
右目は光しか認識できない状態となり、左目も読み書きが難しい状態にまで悪化、
ついに手術を決意します。
本展では、モネが白内障を患い始めた1912年以降に描かれた作品も多く出展されます。
悪化する白内障のためか、モティーフは少しずつ輪郭を失い、
色調は鮮やかで大胆なものへと大きく変化していきます。その力強い筆遣いからは、
色感を失う恐怖を抱えつつも、衰えることがなかった絵画制作への情熱が伝わってきます。
さらに、本展ではモネが晩年使っていた黄色のメガネが展示されます。
ある眼科医は「白内障の手術後、世界が極端に青みがかって見えるのを
嫌って黄色いレンズを使用した可能性が高い」と指摘しています。
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http://www.ytv.co.jp/monet/info/index.html
http://www.ytv.co.jp/monet/highlight/index.html
http://www.ytv.co.jp/monet/work/special.html
展示期間(前期):
印象、日の出2016年3月1日(火)〜3月21日(月・休)
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【作品】
【第1章】
http://www.ytv.co.jp/monet/work/01.html
モネとルノワールは、1862年にパリのシャルル・グレールのアトリエで出会います。
1869年から1870年代半ば頃まで、彼らはカンヴァスを並べて一緒に制作することもありました。
二人の親しい交友関係は、1919年にルノワールが亡くなるまで続きました。
本作品が描かれた1873年夏、意欲的に取り組んでいたサロン(官展)に
2年続けて落選したルノワールは、パリを離れ、初めてアルジャントゥイユのモネの家に滞在します。
この頃、ルノワールはモネとモネ夫人の肖像を何点か制作しました。
本作品では、仕事着でパイプを燻らせるくつろいだ様子のモネが描かれています。
あごひげに素早いタッチで配されたオレンジやパイプの煙の青など、
自由な筆遣いによる鮮やかな色彩が印象派の予兆を感じさせてくれます。
画中のモネが手にする新聞は、「NT」の文字が見えることから、
おそらく「レヴェヌマン(L’Evenement)」紙でしょう。
この新聞は、エミール・ゾラの美術批評を掲載するなど前衛的な芸術を支持していました。
椅子に座る女性は、海に背を向け、こちら側をぼんやりと見つめています。
おそろいのドレスを着た浜辺に座る女性は、読書に夢中になっているのでしょうか。
二人の間に視線を向けると、自由な筆さばきで描かれた波打ち際で遊ぶ少年や、
浜辺で時を過ごす大勢の人々が描かれています。何気なく撮影した写真のような雰囲気で、
この時期のモネらしい大胆な構図となっています。本作品を制作した1870年夏、
モネはカミーユ・ドンシューと正式に結婚し、このトゥルーヴィルに滞在しました。
パリを起点とした鉄道網の発達により、この頃には中産階級のパリの人々も
都会の喧騒を離れた地でヴァカンスや週末を過ごすようになります。
その中でもトゥルーヴィルは、「浜辺の女王」とも称される
ノルマンディー地方の人気の避暑地でした。画家のみならず、
『失われた時を求めて』の作者マルセル・プルーストをはじめ多くの文豪たちも
愛した場所として知られています。
モネの最初の妻カミーユとの間の次男ミシェル、2歳の肖像。
あどけない表情が素早く描きとめられています。長男ジャンは1914年に亡くなり、
モネの死後、ミシェルがジヴェルニーの家と遺された作品を相続することとなります。
【第2章】若き日のモネ:
モネは子供の頃、授業はほとんど聞かずにノートにカリカチュア
(風刺画)を描いていたといいます。
【第3章】 収集家としてのモネ:
ジヴェルニーのモネの家には、彼が収集し愛でた作品が飾られていました。
モネの暮らしを彩り、創作の源ともなったこれらの作品は、
画家自身の作品とともに息子ミシェルからマルモッタン・モネ美術館に遺贈されました。
モネの収集した作品は、ほかの画家とのつながりや彼の審美眼を垣間見せてくれるもので、
画家モネをより深く理解する手掛かりとなるでしょう。本章ではこのコレクションから、
モネが敬愛したドラクロワの作品や10代のモネに戸外制作を勧めたウジェーヌ・ブーダンの水彩画、
ルノワールやカミーユ・ピサロら印象派の作品、
一緒に展覧会を開催したオーギュスト・ロダンの彫刻のほか、
モネの個展を契機に画家を志したポール・シニャックといった
次世代の画家たちの作品をご紹介します。
19世紀フランスのロマン主義を代表する画家ドラクロワ(1798-1863)。
本作品は、モネも訪れたル・アーヴル近郊の景勝地を描いたものです。
そびえ立つ石灰層の絶壁が大きく描かれ、前景には浜辺に打ち寄せる
白波が巧みに捉えられています。波の浸食によって形成されたアーチ部分は、
タイトル通り「馬の脚」のようにも見えます。モネは、
若い頃からドラクロワを称賛していました。
ヨンキント(1819-1891)は、17世紀オランダの海景画の流れを汲みつつも
戸外制作を学んだオランダ出身の画家。モネ自身の言葉によれば、
彼に「決定的な眼の教育」を施した画家でした。自然をよく観察し、
一瞬の光を画面に定着させるヨンキントの作品は、
モネのみならず多くの印象派の画家たちに影響を与えました。
スペイン国境に近い南仏の港が落ち着いた色彩で描かれた本作品は、
ヨンキントの死後の競売で、モネ自らが購入した作品です。
【第4章】モテイーフの狩人:
モネは、後半生を過ごすジヴェルニーに安住する以前には、よく旅をし、
旅先の風景を描きました。まるで「狩人」のようだと称されたモネは、
移ろうモティーフを画面に素早く捉えています。最初の長い旅行は、
1870年に普仏戦争を避けるべく赴いたロンドンでした。
テムズ川の流れる近代化したロンドンの風景だけではなく、
イギリス風景画の巨匠ターナーらの作品からも大きく影響を受けます。
翌1871年オランダを経由しフランスに帰国後、アルジャントゥイユへ移住し、
セーヌ川の風景を描きました。1878年には家族を連れてヴェトゥイユへ、
1883年にはジヴェルニーへ移り住みます。1880年から1885年にかけて、
ノルマンディーの海岸を定期的に訪れ、朝や夕暮れの太陽による
自然の変化を捉えていきました。ジヴェルニーに落ち着いた後も、
時おり旅に出かけ、ノルウェーやロンドン、ヴェネツィアを訪れ、
豊かな風景画を生み出していきました。
1871年、モネはパリから鉄道で15分ほどのアルジャントゥイユに移り住みました。
その後6年にわたってこの地を拠点としたモネは、セーヌ川の情景や豊かな
自然にあふれた風景を描きます。1874年から1875年にかけての冬、
モネは雪のアルジャントゥイユを描いた作品を15点ほど残しています。
本作品はこのうちの1点で、家々の屋根や地面にうっすらと雪が残る夕暮れの情景が描かれています。
どんよりとした空には、微かに沈みゆく陽の光が映し出され、煙突から立ち上る煙も見えます。
この煙突は完成したばかりの製鉄工場のもので、産業の拡大に伴い、
町並みが急速に変化していく様を象徴しているかのようです。
雪の積もる空地には、枯れた草が自由な筆触で軽やかに表されています。
雪景色は、モネだけではなく印象派の画家たちが好んで描いた主題のひとつでした。
彼らは、雪の世界を白の単調な広がりではなく、雪に反射する繊細な光を捉え、
微妙な色彩を用いて表しました。
1880年代を通して、モネはよく旅に出かけ作品を制作しました。
フランス北西部のノルマンディー沿岸の避暑地やブルターニュの島、
地中海に面した南フランスの光輝く海辺、テムズ川の流れるロンドンや水の国オランダ。
モネは各地で季節や天候によって異なる表情を見せる水辺の風景を画面に定着させていきました。
本作品は、モネの3回目となるオランダ旅行で描かれたものです。
水面のきらめきとチューリップ畑、風車、そして曇り空とオランダらしい風景が広がっています。
ほぼ中央の地平線が、起伏のないどこまでも続く大地と空の広がりを感じさせ、
中央の風車とそのラフな筆触が強い風の存在を感じさせます。モネは、
風によって波打つ水面や揺れる花々を、水平に長い筆触によって表しました。
雲の隙間から降り注いだ光を反射し、風に揺れる世界の美しい一瞬を見事に捉えています。
【第5章】睡蓮と花:
ジヴェルニーの庭は、モネが造り上げた作品のひとつです。庭師も雇いますが、
庭造りが好きなモネは自ら花の種類と配置を考え、絵を描くように美しい庭を育てていきました。
邸宅前の花の庭だけではなく、やがて敷地を広げ池を造り、睡蓮の咲く水の庭を実現しました。
長男ジャンが死去し第一次世界大戦が勃発する1914年、モネは「睡蓮」の大作に取り組み始めます。
オランジュリー美術館の大装飾画となるこの「睡蓮」も、ジヴェルニーの庭から生まれたものです。
制作のためにモネは、敷地の一画にガラス張りの大きなアトリエを建てました。本章では、
この大装飾画の準備のために描かれた作品を含む6点の「睡蓮」や、
睡蓮の池のほとりで育てられた花々を描いた作品をご紹介します。
モネは絵を描くように、庭も自身の芸術作品として造り上げていきました。
モネはさまざまな種類の花に興味を持ち、アガパンサスやアイリスもよく描きました。
ジヴェルニーの自邸を浮世絵で飾ったモネは、水の庭のまわりで日本の植物を育てました。
1883年、モネはパリから数十キロほどセーヌ川を下ったジヴェルニーに移り住みます。
この時モネは42歳。そして86歳で亡くなるまで、
このセーヌ川とエプト川の合流する自然豊かな村を拠点に制作を続けます。
自邸からほど近いエプト川へたびたび制作に出かけ、
舟遊びや釣りをする女性たちの穏やかな情景を描きました。
やや縦長の正方形に近い画面のほとんどを占めるのは、透明な川の底で光を反射する水草です。
水草は、黄色や赤の筆触がまるで小さな魚の群れのように川の流れに揺れ動いています。
誰もいない小舟と暗い川底のうごめきは、異世界のような少し不気味な雰囲気さえ醸し出しています。
モネは水中の世界を描く難しさについて、次のように手紙に書き残しました。
「川底で揺れ動く水草と水を捉えるという、不可能なことに取り組みました。
それは眺める分にはすばらしいのですが、描こうすると気が狂いそうになります。」
1893年、モネは自邸の向かいに新たな土地を購入し、水の庭を造り始めます。
モネは、生涯で200点を超える睡蓮を描いたといわれ、季節や天気、時間、
さらには描く視点を変えて移ろいゆく水面を捉えようとしました。
近い視点から水面を捉えた1903年の《睡蓮》(左上)には、睡蓮の花や映り込む柳の形態が
比較的はっきりと認められます。1907年の《睡蓮》(右上)では筆触がやや粗くなり、
睡蓮や木々の影は池に溶け込んでいくようです。画面上部にポプラと柳が逆光により濃く映り込み、
画面下部に向かって空が描かれています。逆転した構成は、観者の見方を揺るがし、惹きつけます。
1917年から1919年頃の《睡蓮》(下)では水面が緑、赤、紫、黄色と豊かに彩られ、
睡蓮を探すのが困難なほどです。ダイナミックな筆跡は、モネの衰えない熱意を感じさせます。
しかし、このようなモネ晩年の躍動的な「睡蓮」が高い評価を受けるのは、
1950年代の抽象表現主義の台頭まで待たなくてはなりませんでした。
【第6章】最晩年:
モネ最晩年の作品は、粗い筆触で、それまでの繊細な色調とは異なり、
赤系もしくは青系の色彩が強く、抽象画に近いものとなっていきます。
描く対象はジヴェルニーの庭の中に限られていき、
池に架けた日本風の太鼓橋やバラの小道のように同じモティーフが繰り返し描かれました。
しかし、濃密に重ねられた太い筆触によって、
画面に何が描かれているかを判別するのが難しくなっていきます。
こうした作品には白内障の影響も窺えますが、モネは近距離では十分な視力があったとされ、
自身の筆の運びは十分に認識できていたと考えられています。
本章でご紹介する作品は、白内障の手術後も破棄されず、モネが生涯手放さずに残した作品です。
これらの作品は、モネのもっとも内面的な部分を垣間見せてくれると同時に、
20世紀半ば以降の新しい絵画表現の予兆を感じさせます。
バラの小道は、モネの邸宅前に造られたバラのアーチがある道で、
水の庭に架かる太鼓橋へとつながります。この小道を正面から描いた本作品は、
黄色や赤の鮮やかな色彩が目に飛び込んでくる力強い作品となっています。
同じ頃に描かれた「日本の橋」の連作と類似し、画面全体を均一に描くような表現は、
抽象絵画のようです。
この頃のモネは、制作にインスピレーションを与える美しい庭に囲まれながらも、
失明の恐怖と闘っていました。1912年に白内障と診断され、
視力が衰えたため1923年には3回の手術を受けます。
制作においてどれほど眼病の影響があったかは定かではありませんが、
手術後モネは、それ以前の数年間に描いた多くの作品を破棄しました。
今日に伝わるこの頃の作品は、衰えた視力で描いていたとしても、
画家自身が認めた作品といえるでしょう。
1895年、モネは睡蓮の浮かぶ水の庭に日本風の太鼓橋を架けました。
モネは水の庭に日本的なものを取り入れており、池のほとりには菖蒲やカキツバタ、
柳や竹も配されていました。1899年から1900年にかけて描かれた太鼓橋の最初の連作は、
自然主義的な調和ある繊細な風景でしたが、右の作品を含む1918年からの第二の連作では、
橋の存在はそれと知って見なければ分からないほどです。この頃には太鼓橋の上部には、
その曲線に沿うよう藤棚が設けられていました。画中にも橋と藤棚が二重の弧として描かれています。
この時期の「日本の橋」は制作年が明らかではなく、年代順にその展開を辿ることはできませんが、
白内障にもっとも苦しんでいた時期に描かれた作品も含まれています。
ときに激しいタッチと色彩で描かれたこれらの連作は、
モネが印象派の画家に留まることなく前衛であり続けた様を示しています。
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【追記・感想】
1」今回のメインの絵画「日の出」は印象派に取って意味のある作品・・・
しかし私の感性には余りインパクトがなかった。
しかも今回の展示方法についていろいろなコメントがある。
「日の出」の照明について・・・
「余りにも輝きすぎて単なる絵画とは見えないくらいだった」
それほど浮き立って見えた。少し過剰な照明と思った。
2」この「日の出」を何処かの展覧会で見たような気がするが・・・
前記の様に
2008年12月23日〜2009年2月8日には名古屋市美術館
1994年−モネ展 石橋財団ブリヂストン美術館/編 中日新聞社 1994 E/723/MO 1100759453
http://www.library.pref.kyoto.jp/wp/wp-content/uploads/2016/02/inshoha.pdf
《印象、日の出》は、京都では33年ぶり。
私の記憶違い??
3」モネでは
オランジェリーでの大作が思い出されるが
「On the Banks of the Seine, Bennecourt,
1868, Claude Monet
(Art Institute of Chicago)」
以前にBLOGに書いたのを思い出す。
http://takayukiyamada.cocolog-nifty.com/takayuki/2012/12/post-6131.html
http://www.monetalia.com/paintings/monet-on-the-bank-of-the-seine-at-bennecourt.aspx
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